敬覚寺縁起

 八木山(酒源山)敬覚寺相続年代記によれば、承元三年(1209)親鸞聖人越後ご教化の折り、俗名八木次郎左衛門と朋友鈴木新十郎は、六字ご名号のご直筆をいただき、聖人に帰依する。
八木次郎左衛門は、法名釈法西と号し直弟子となり、寺地(平島)に一字を建立し、敬覚寺の開基となる。その後、十世覚法の代、永禄九年(1566)、新潟市酒屋町(金津保左加也県)の現在地に移転した。その後、親鸞聖人のご直筆の川越ご名号は鈴木家に託し、その他の宝物は持参する。以後、平島鈴木家においての「川越波切ご名号」の恒年の法儀相続には、住職が持参し拝帳すること430年余にわたっている。六字ご名号は、「川越お別れの御名号」または「川越波切ご名号」とも呼ばれている。

 平島の鈴木家は現存し、今も敬覚寺の檀家であります。現在は西川排水機場建設に伴い移転しておりますが、今も川越波切御名号の石碑が当時の思いを偲ばせております。ご興味のある方は是非足をお運びください。

親鸞聖人の川越波切の御名号

 親鸞聖人は、五年に及ぶ越後流罪が赦免され、この北陸の地に教化の折、五十嵐浜から平島(さめづら)に上陸され、さらに信濃川対岸の鳥屋野から近郷の村々を御布教して居られた途中のことであった。御布教を終えられた親鸞聖人が、いっもの通り、寺地村(さめづら)の渡し守、鈴木新十郎の船に乗って、信濃川を鳥屋野へ渡ろうとなされた時。にわかに天候が悪化し、北風が激しく吹いて嵐になり、船は木の葉のように揺れて進まず、船頭の力も尽きようとしていた。新十郎は手のほどこしようもなく途方に暮れていたところ、親鸞聖人が、懐中より紙を取り出され「南無阿弥陀仏」の六号御名号を書かれて新十郎に与えられた。早速、新十郎がこの御名号を船の帆先にくくり付けたところ、不思議に嵐は収まり、波が静かになり、無事に対岸の鳥屋野にお着きになることが出来た。
 聖人は、この六字御名号を、敬覚寺開基となる八木次郎左衛門と新十郎にお与えになり、鈴木家はこの地に御名号堂を建立した。
 承久年間、順徳天皇のお渡り時「間遠なり」と言われ、以来平島と鳥屋野の間は、「間遠の渡」という。また元禄のはじめ俳人芭蕉が立ち寄り。「船の中眠る間遠のわたし哉」と読んだと伝えられる。