敬覚寺と両川の歴史

1532~54年(天文年間)から1648~51年(慶安年間)
伝承によれば両川の各村の開発は、この1532~54年(天文年間)から1648~51年(慶安年間)と云われている。
1573~92年(天正年間)
北上村から移住した北上勘之丞が、小阿賀野川の附州を開発したとされる。
1867年(慶応3年)7月
会津藩の代官所が酒屋に移された。戊辰戦争の始まり(詳しくは)
1868年(慶応4年)2月2日
酒屋陣屋で越後諸藩会談。長岡・新発田・高田・村松・与板・桑名・会津の各藩参加。この頃、新発田藩兵200名が、京都の新政府軍参加のため上京。
1868年(慶応4年)6月14日
酒屋町にある会津藩の包帯所撤退し、会津藩兵は全ていなくなる。
1868年(慶応4年)8月1日
新政府軍は、ひそかに長船で車場新田へ渡り、一斉に発声と発砲したところ、同盟軍は、狼狽して敗走した。追撃して荻島新田に至り敵兵一人を福知山隊が討ち取り、本陣に送らせた。この日、暁七ツ(午前4時)ころ、亀田町でも激しい砲声を聞いたという。町では、早鐘早貝が鳴り大いに騒擾したという。亀田町からも農兵を出すように連絡があり、六百有余人が二本木白倉氏宅に着いた。政府軍は、三ツロを渡り敵陣を突いたのである。亀田の農兵は、車場の渡し場からひそかに敵の横合いを撃つように、そして、2発の砲声を聞いたら鯨波の声を上げるよういう指示を受けた。亀田の農兵は、敵を追って北上・川口辺りまで至ったという。荻島新田屯集の米沢同盟軍は塁を捨てて新津町に退却した。政府軍は、三ツロを福知山、車場口を芸州の二手に分かれて渡河した。その人数は、70人に満たなかった。葛塚からも農民兵300人が横越嶋へ加勢にやってきて、木津圓通寺に屯集した。通琳寺でも葛塚隊350人の内310人に昼食を提供した。この夜はま大雨となり、砲声も止んだ。また、銃隊30人が二本木に出兵した。新政府軍の進行にあたって、心配事に直面したのが桑名藩預所の小杉村である。松ケ崎上陸作戦後、村々では何かと心配していたらしい。そこへ、夜、本所村から横越へ政府軍の通行があるという知らせが、下通りの村々から小杉村小杉村に入った。俵柳の豪農小林政司が、付近の有志百七十八人を集めて組織した勤王義勇農民兵の金革隊により酒屋陣屋焼き払われる。
1889年(明治22年)4月1日
町村制施行に伴い中蒲原郡酒屋村が村制施行し、酒屋村が発足。
1901年(明治34年)11月1日
酒屋村は、中蒲原郡割野村、嘉瀬村、和舞村と合併し、両川村となり消滅。大字酒屋となる。
1902年(明治34年)
両川の地名は、明治34年の両川村成立時に付けられた新しい呼称で、当時の公文書(1901)には「フタカハ」と振り仮名がつけられていた。
1944年(昭和19年)8月23日~1946年(昭和21年)3月下旬
 昭和19年(1944)7月、政府は学童疎開を決定しました。学童疎開とは、太平洋戦争末期に戦争の災禍を避けるため、大都市の国民学校児童を農山村地域に集団的または個人的に移動させることです。同年8月4日に東京都区内の3年生から6年生までの児童を対象として実施に移され、多くの子ども達が親元を離れ、全国各地へ散らばっていきました。
 旧亀田町には東京都深川区(現・江東区)城東にあった東川(とうせん)国民学校(現江東区立東川小学校)児童1 9 1名が、圓満寺47名、通心寺49名、圓行寺46名、亀田寺49名に分宿し、1 3 4名が旧両川村酒屋の本敬寺43名、西養寺46名、敬覚寺45名にそれぞれ滞在しました。
 江南区郷土資料館では、当時敬覚寺で使われていたこたつやぐら(詳しくは)が展示されています。
2015年現在に至る

舟運

 江戸時代、越後平野に所領をもつ諸藩の領主は、領内の年貢米輸送と領内で必要な請物資の運送を円滑に行うため、河川舟運の整備に努めた。そうした舟運に大きな役割を果たしたのが船道(ふなどう・ふなとう)であった。船道は輸送用の船を持つ商人たちの仲間で、船で年貢米や藩が必要とする荷物を輸送したり、役人を運んだりする業務を引き受けるとともに藩に運上金を納め、その見返りとして、川の貨客輸送の特権を与えられていた。
 船道には、長岡藩が公認した長岡船道蒲原船道、会津藩が公認した津川船道、新発田藩が組織した沼垂船統などがあった。また、長岡より上流の信濃川筋には妻有船道という枝船道があり、長岡船道と結ばれていた。その他に河岸場から河岸場へ荷主から荷物の輸送を請け負う輸送業者の組織もあって、川ごとに「~通船」と呼ばれた。
 船道仲間のうち、町政に参与する役職に就いていた者が船道を差配した。数の限られた船道株があり、この株を持っている者だけが船道仲間になれた。船が沈んだり、船道に対抗して商売をする船主だちと厳しい競争をしたりしたために、経営が立ち行かなくなって株を売る船主もいた。

 参考文献 平成18年度新潟市合併記念展 新潟の舟運 ~川がつなぐ越後平野の町・村~(新潟歴史博物館所蔵)

 両川は、信濃川と小阿賀野川を臨む航路には重要な拠点でした。古くは津川(福島・会津)側・長岡側からの水路として多くの物資や人が運ばれており多くの舟が往来し賑やかな宿場町でもありました。そのなごりとして現在でも多くの仕出し屋があります。会津藩の領地でもあった歴史も有り、いかにこの両川・酒屋が重要だったかが伺えます。磐越西線(現JR東日本)を通す際は、この地も候補に挙がったほどでしたが残念ながら実現はしませんでした。

こたつやぐら

 新潟市江南区郷土資料館に展示されているこたつやぐら敬覚寺で実際に使われたもので、一度に大勢の児童が暖を取れるように工夫したものです。また、看板は船戸山の道心寺が児童の宿舎となっていることを示すものですが、当初、通心寺は東京都若林国民学校(現世田谷区立若林小学校)の児童を受け入れる予定であったと思われます。昭和20年5月、亀田地区の各学寮は、6年生の帰京による学童の減少と町の都合により閉鎖され、これらの児童は酒屋の本敬寺、西養寺、敬覚寺や新津の正法寺、妙本寺、改観寺に移されました。